《最近の説教から》

出会った御言葉から No.179
マルコによる福音書 16章6節
「若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」(新共同訳)

イースターおめでとうございます。
今日は、イエス様の墓の中に座る若者の語った言葉です。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、安息日が終わり、イエス様の遺体に香油を塗るために、イエス様の遺体が納められた墓にやってきました。彼女たちは、今まで守り、導いて下さったイエス様を失い、途方に暮れていて、主の遺体に目を向ける他なかったのです。

そして墓に来てみると、墓を塞ぐ大きな石は既にわきへ転がしてあり、イエス様の遺体はありませんでした。そこには、白い長い衣を着た若者が座っていて、今日の御言葉を語ったのです。驚くに決まっています。この後、彼女たちは、若者からイエス様が「かねて言われたとおり」に、先にガリラヤに行かれ、「そこでお目にかかれる」と「弟子たちとペトロに告げなさい」と命じられるのですが、恐ろしさのあまり、「震え上がり、正気を失い」、「だれにも何も言わ」ずに、この物語は終わってしまうのです。

ルカ福音書や、ヨハネ福音書に書かれているような、最初の復活を語る役目を、マルコ福音書では、彼女たちは、担わずに、「沈黙」して終わるのですが、それだからこそ、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」という事実が際立つのです。彼女たちが沈黙していても、今の私たちは主の復活を信じ、共に喜び、礼拝を捧げます。それは、沈黙や、無理解、不信仰、恐怖を越えて、復活の主が働かれたことを意味しています。そして、恐怖のあまり、沈黙した彼女たちもその恐怖が拭い去られ、新たな道を生きたから、今の私たちにまで、復活の主の福音が届いているのです。

私たちも、多くの困難や、課題を抱え、恐れや、悲しみのあまり、沈黙する事がありますが、その沈黙を、行き詰まりを、復活の主が打ち破り新たな命の内に歩ませて下さるのです。復活の喜びを胸に、新しい年度の歩みを進めて行きたいと思います。